名 称   蕎麦尾山 金剛頂寺

宗 派   高野山真言宗

御本尊   正観世音菩薩  秘仏(三十三年毎に開扉)

        ※当寺では古くより「聖」ではなく「正」を用いる

      右脇侍 愛染明王 珍しい三面六臂の愛染様です!

      左脇侍 不動明王 秘仏 

      阿弥陀如来

      お大師様御尊像    

札 所   美作八十八ヵ所第六十五番札所  /  美作観音霊場第十番札所

 

毘沙門堂   御本尊 毘沙門天王(石仏)

毘沙門堂   地蔵菩薩(石仏)

毘沙門堂   不動明王(石仏)

毘沙門堂   奉納石仏多数

 

薬師堂    御本尊 薬師如来(石仏)

薬師堂    お大師様御尊像(陶磁)

薬師堂    奉納石仏多数

 

金剛頂寺縁起

文武天皇、大宝三年鑑真和尚の開基の説があるが詳細は不明。度重なる落雷での火事により昭和十四年に現地へ縮小移転したが、元は約七百米ほど東南の山頂にあり一山寺を形成していた。山の稜線が蕎麦の角に似ていることから山号を蕎麦尾山と称す。山上には弘法大師が留錫修法せられたといわれる加持水の閼伽地があり真夏でも涸れることがない。更に七堂伽藍があったといわれ、礎石が現在も多数残っている。明治以前の録事によれば、境内を中心に吉井川西岸五百町歩ほどが寺領であったことが記されている。また、津山藩主森、松平両家から祈願所として宛扶持五十石を受けていた。本尊、聖観世音菩薩は子安観音としても親しまれ、昭和初期までは、遠くは大阪・神戸方面からも参拝者があり、特に八月の十八日の観音様の縁日には賑わいを見せていたが、戦時に中断してしまった。

美作八十八ヵ所霊場会HPより

 

当山は、大宝三年(703)の開山と伝えられています。開基は不詳ですが、一説に鑑真和尚の説があります。弘法大師が美作路を巡錫の道すがら、蕎麦尾山に立ち寄られ、しばらく足を留め修業をされました。その折、遠くの岩の塊を祈念し、手に持てる五鈷で岩角を打つと、忽ち澄み切った水がほとばしり出ました。大師は傍らに八大龍王及び弥勒菩薩を祀り、この霊水を本尊に供えられました。以来この霊水は、弘法大師の閼伽池として後世に伝えられ、今も霊水の枯れることなく現存しています。平安、鎌倉時代には特に栄え、山上には伽藍がそびえ、参道の途中には小堂が建立され、高野山になぞらえてこの堂を女人堂といい、当時女性はこの堂までしかお参りできませんでした。慶長十一年(1606)、当寺の住職快秀が、「この寺には以前銘鐘があったが、地中に埋められている。早く掘出しなさい。鐘のある場所は浴室の側の芭蕉の根元だ。」と、ある夜の夢に見ました。夢から覚めた住職は早速、芭蕉の根元を掘ると、五尺余りの見事な梵鐘が出てきました。その銘には、「美作国蕎麦尾山光明院 法界衆生平等利益之為也 嘉元四年(1306)丙牛年正月二十八日」と刻まれていました。嘉元四年は鎌倉末期であります。戦前地元に良い音色を響かせ親しまれていた銘鐘も、戦時中に供出させられ、今はありません。

高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場開創三十周年記念事業誌「美作霊場めぐり」より

 

寺宝

御神像(鎮守像二躰:昭和51年鏡野町指定文化財)

津山藩主松平家よりの寺領五十石の朱印状

 

金剛頂寺の神像について

この像は、山城の金剛頂寺にある。その昔、兵火にあった東大寺の再建を、治承4年(1180)後白河法皇より命ぜられた俊乗房重源上人が、各地下向の時、美作蕎麦尾山に参籠、大任成就を祈り霊験を得、大いに喜んで、防災護寺のために熊野権現を勧請せられたものと言う。この蕎麦尾山金剛頂寺には、この時代の通例に従い一山の守護神として白山社、庚申堂稲荷社、毘沙門堂等天部諸神が祀られていた。さらに、一山の総鎮守として三宝荒神が祀られていたが、重源上人によって観音霊場の守護神、南海普陀落浄土の熊野権現を勧請合祀したのが現在の神像である。この神像は元、山城の室地区の下の山中(標高差約110m)にあり、昭和14年(1939)に現在地に下山したものである。金剛頂寺は、縁起によれば大宝3年(703)の頃、鑑真和上(688~763)の開基と伝えらている。昔の蕎麦尾山上には堂塔が建ち並び、美作地方屈指の寺院として幾つかの末寺を抱え賑わいを見せていたという。又、空海(774~835)も巡錫されているともいわれている。度々の火災や明治の神仏分離等により衰退し、戦時中は住職出征後無住となり寺は荒れ宝物等も紛失し、昭和14年(1939)に現在地に移転。神像も同時に現寺院に祀られたのである。昭和51年4月1日 鏡野町指定文化財(彫刻)。

岡山県立図書館 電子図書館システム デジタル岡山大百科 郷土情報ネットワークより

参考 矢吹金一郎校訂「新訂作陽誌」作陽新報社  

鏡野町文化財保護委員会編「鏡野町の文化財」

 


金剛頂寺の言い伝え

昔神戸の百姓佐太夫という者が、或る日深山の谷間へ薪をとりに行ったところ、何処からともなくお経を唱える声が聞こえ、不思議に思いながら声のする方へ近づいてみると、一人の老僧が岩上に座っていた。・・・佐太夫を見て「わしは、蕎麦尾のお寺に本堂ができたというのでお参りしようと思うが、道がわからず困っていたのだ。道案内をたのむ・・・。」佐太夫は快く承知して先に立ったが、彼の老僧の歩みはまことに危うい。遂に背負ってくれとたのまれ、負って本堂前まで来ると、もうここでよいといい、背から降りたとたんに見えなくなってしまった。佐太夫は不思議に思いながらも、ここまできたのだから観音様にお参りしようと、本堂に行き内陣を見ると、先ほどの老僧が座っていたという。丁重に伏しおがんだ佐太夫のその身には、いつまでもよい薫りが残り、幸せが続き、子孫が栄えたという。

蕎麦尾山上の寺跡には当時の寺勢を偲ぶ礎石跡が点在し、中でも、弘法大師御留錫、御修法の為の閼伽水を汲まれたと傳えられる閼伽池は今でも霊泉が湧き出ている。

美作八十八ヵ所霊場会HPより引用加筆



住職 副住職のご紹介

【住 職】 木下宥章

 当山第95代住職。鏡野中・高野山高校・高野山大学卒。

 趣味はアマチュア無線(JH4QFR)、写真、登山(高野山大学山岳部)、山野草。

 鏡野無線クラブ・鏡野自然研究会会員。

     

【副住職】 木下宥弘

 昭和50年生。鏡野中・津山高校・大学卒業後は社会人を経て高野山専修学院卒(皆勤賞)。

 高野山真言宗総本山金剛峯寺阿字観指導者能化心得

 四国一〇八霊場(四国八十八ヶ所霊場+別格二十霊場)歩き遍路(通し42日間)成満

 2017年3月より区切りにて西国徒歩巡礼中!

 趣味は吹奏楽(津山シティブラス クラリネット)、スクーバダイビング、家庭菜園。

 津山市内で妻(中学校教員)と2人暮らし。